以下に転載します。
-------------------------------------------------------
[走れメロス!今後のある方針について・・・]
僕はいまだにわかったような気もするが、やはり分かっていないかもしれないと思っている。
「なぜ、走れメロスは走り続けることができたのか?」
「なぜ、セリヌンティウスは待ち続けることができたのか?」
このブログは匿名で書いているが、書いてる僕が誰かを知っている人は多いと思う。
でも匿名だからそんなの気にはしない・・・
今日12月17日は、僕が高二だった今日に死んだ日だ。
日曜日だった。
小学校5,6年の時の同窓会をやった夜に、僕はバイクでカーブで転倒し、壁や道路に頭や体を叩きつけられ意識不明になった。脳挫傷だった。顔を強く直撃したらしく鼻や頬の骨が折れ相当な内出血となり、気管支切開をしてチューブを通し人工呼吸をした。
医者は死ぬか植物人間かで意識が回復することはないと言ったらしい。
気丈な母は病室のベッドの横に布団を敷いてずっと寝ずの看病をしてたという。母は、昭和3年生まれだから、あの時、50歳だったんだ。今はじめて母のその時の年を意識した。きれいだった母は看病でめっきり老けてしまった。
1月7日、事故から21日目の朝に突然僕は目覚めたらしい・・・
町田の友人は皆知っている。でも、大学から東京で出会った人にこんな話はする必要もないししたくもなかった。でも書こう。書くべき意味がきっとあるはずだ。
一週間ほど前に、八王子に行った。その帰りに、町田街道を下り実家に寄ろうと思った。忠生第三小学校に差し掛かった時に、友人の和田君に電話しようと思った。和田君は、一流の大工の親方である。腕は抜群にいい。小学校の時も学校一の器用な奴だった。近所で工務店を経営しているから電話をした。
和田は、現場にいると言った。でも近いから来るか?と言う。電話で誘導されてついた現場は、僕が17の時に事故った道の一本となり。僕は思いだしはじめていた。
和田は手元二人を使ってちょうど一服タイムだった。かの有名なエホメの社長さんなどとおれのことを二人に紹介した。おれも頭を下げて挨拶をした。しばらく話してから車に乗って出た。
あの道をもう一度通ってみよう。あの道を通って実家に帰ろう。遠いあの日、僕はあの道を通り、家に帰れなかったんだから・・・
ゆっくりハンドルを切って旋回し、あの道に出た。ゆるく長いカーブ。
とても言葉には表せない。ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり運転するんだ。絶対に事故らずに家に戻るんだ・・・
一度だけ、一時停止を無視したバンが横から飛び出し、急ブレーキをかけて横腹をこちらに見せて目の前に停まった。事故ることはなかった。
僕は帰ることができた。戻ることができたんだ・・・
先週の月曜日、12月8日の午後。
僕は今、エホメに関する訴訟を抱えている。大きな訴訟だ。世間では、「耐震偽装事件」と呼ばれる事件に関するものだ。
僕は一時は信頼できる弁護士に任せきりにしながらもこの訴訟を抱えてきた。この三年間で約10件近い訴訟が起こされた。
半分近くは勝訴で終わった。まだ半分は残っている。新たに提訴されるかもしれない。
しかし、僕はこの訴訟を受けて立つことを、今、誇らしく思っている。
何を言わんかやだが、僕はこの訴訟を通じて闇を切り開くことが出来るような気がするんだ。
自信が不思議と沸き起こってくるんだ。ふつふつとね。
訴訟は三つに大別される。
ヒューザーやホテルオーナーがエホメや自治体を訴えたものだ。
次は、マンション住民がエホメヤERIや自治体を訴えているものだ。
そして、いま一つは、マンション住民が「エホメ」と「自治体」と「国」を訴えたものだ。
最初のケースは既に奈良地裁で判決が出た。
エホメに過失なし、ゆえに勝訴だ。
判決理由は、大臣認定の構造計算プログラムが審査の前提である以上、そして、審査期間が3週間と定められている以上、構造計算の結果を一から百まですべてを目を通して審査することを法は求めていない。だから、過失ではないという理由だ。
判決文は手元にある。後日、写しを書こう。
僕は、これからこのブログに不定期ではあろうが、日々のたわいない抜けチャン話に加えて、この耐震偽装事件の裁判を通じて、如何にして、本当の決着をつけるかをこのブログに書いていこう。
二つ目の訴訟ケースは、最初の理由と同じ理由で棄却されるだろう。
しかし、三番目のケースは、その裁判を通じて、エホメに過失がないということだけでなく、耐震偽装事件が生じた因果関係は、国土交通省(旧建設省)と(財)日本建築センターにあることを明らかにしてやる。
すべての関連当事者を証人申請しよう!
姉歯や小嶋ではない。
官僚だ。政治家だ。御用学者をだ!
事件が発生した当時の北側一雄から、ユニオンシステムのSS2(構造計算プログラム)を認定した期間の大臣まで遡ってすべてを証人申請しよう。
メールはすべて目を通すと公言した、小泉純一郎に送った僕からのレターになぜ一国の首相たるものが国民の命を犠牲にして無視をしたのか、彼の主張を法廷で明らかにしよう。
安倍晋三も、なぜ、わざわざ総理官邸まで出向いて、アパマンションや川崎のマンションの構造計算書が偽装されたまま工事続行していることを知らせようとしたのに無視をしたのか、彼にその理由と主張を言わせる場を提供しよう。
証人申請されたものは、国民の義務として出廷しなければならない。
グランドステージのマンション住民や彼らが依頼した弁護士では、この耐震偽装事件の因果関係が何であるのかを理解し立証することは困難だろう。
だから、僕が代りに、エホメに過失がない理由として、大臣認定制度に原因があり、耐震偽装事件によって住民に被害が生じた原因が、時の為政者や官僚、御用学者が住民を犠牲にして、この事件が飛び火しないように隠蔽した事実を明らかにしよう。
佐藤信秋も、山本繁太郎も、小川冨吉も、伊藤公介も、すべて証人申請をしよう。
裁判は長くなるかもしれない。しかし、いくら長くなっても、真実を解明する為に、裁判官は訴訟当事者の僕からの証人申請を拒絶することは考えられない。ありえないはずさ。
僕は法を信じている。悪用する奴もいるだろう。しかし、悪用されたら改正を積み重ねていけばいい。法の精神こそ大切なはず。必ず、法定の場で真実は明らかになる。
一部のマンションだけを取り壊した責任の一端は、自治体の責任者に帰する(建築基準法9条)。取り壊す必要はなかったんだ。補修はできたはずだ。実際に、事件が風化する中で他に隠れて補修して済ませているじゃないか。だから、都であれば石原慎太郎も当事者のはず。川崎の阿部孝夫(市長)もその一人だ。
だれが何をしたのかを、日本の法廷の場で明らかにしてやる。光が差し込むか、闇は払拭できないものなのか、僕には分らない。
だけど、この裁判を通してこれができるのは、この世界にたった僕しかいないんだ。今気がついた。。
よくぞ、国と共にエホメを訴えてくれた。ありがとう。
グランドステージ東向島とグランドステージ溝の口の原告の皆さん。ありがとう。
あなたたちが国を訴訟当事者にした勇気をたたえ、エホメをともに訴訟当事者にした知恵に敬服する。
3年前に、僕は皆さんに国を訴えるべきだと言った。あの多士ビルの5階の会議室に訪れたマンション住民の方々に、僕は何度も国を訴えるように言った。
しかし、あの当時、住民の人は、「国が補償をしてくれるから、国を訴えるわけにはいかない」と悔しそうにあきらめるように言っていた。僕はよく覚えているよ。
しかし、しかしだ。事件から三年間という時間が、耐震偽装事件を風化させていく中で、国はけつをまくって逃げ出すようにすずめの涙の保証金だけしか支払わなかった。本当に支払われたのかさえ分からない。
本当は国は逃げてなどいない。逃げたのは、二本という国を隠れ蓑にした一部の官僚と政治家という人間だ。悪い心をもったただの人なんだ。
エホメは耐震偽装事件の被害者ではなかったから、つまり訴えの利益がなかったから、国を訴えることはできなかった。もう、ずっとあきらめるしかないと思っていた。
ようやく光が差し込み始めたんだ。この訴訟によって、僕はようやく日本国の憲法他法典が定める人権を駆使して、日本の闇に慣れ切ってしまった、一部の官僚や政治家、そして御用学者を白洲の場に立たせよう。
国民の目の前で彼らの証言を明らかにしよう。
もし、このブログを他の被害にあったマンション住民の方が見かけて同調できるなら、この裁判の原告側に参加してください。
僕は、エホメへの損害賠償請求の棄却を求めるが、この立証を通じて、この事件が、この日本の闇に親しんだ一部の勘違いした人間を明らかにする場にする。
本当に悪いことをした奴が誰かを絶対に明らかにしてやる。
訴訟費用の負担については、エホメへの賠償請求が棄却となり、事件の責任者が国であることを裁判官が認めた場合に、エホメは半額を負担しよう。何故ならば、この裁判の結果は、エホメの名誉回復の裁判でもあるからだ。
但し、不当な弁護士費用は負担しない。いい加減な弁護士がこの世にいかに多いのかも明らかにできるかもしれない。他人の不幸に便乗して、高い訴訟費用を請求しようとする弁護士がいるのなら、その者がだれであるかを明らかにし、正当な費用について国民の目の前で検証しようではないか。
僕は目覚めた。
新しい事業はしっかりやっていこう。
家族や友人との楽しい時間も大切にしよう。
そして、このエホメの名誉を回復し、同時に被害にあったマンション住民の方が救済できるなら、僕は残りの人生を思い切り走っていこう。たまに休むかもしれない。とても渡れそうもない川があるかもしれない。でも、頑張ってゴールを目指そう。
31年前の今日の夕方、僕は死んだ。
2008年の今日の今、僕は目覚めた。
なあに大したことなんかじゃない。小さい子供を育てる母親の苦労に比べればなんてことはない。
川を渡れずにずっと眠っていた。まだ渡りきれてもいないよ。また、倒れるかもしれないよ。でも、ここから走り始める。
僕はその記録を抜弁天の名でこのブログに記録していこう。
ありがとう。よおしもういちどこの身に鞭打って走っていこうではないか!

